サワードゥ・ブレッドの受難—イーストの登場
酵母菌の発見
なぜ小麦粉と水を混ぜて放置すると膨らむのかという理由は、何世紀もずっとわからないままでした。
人類はその間ずっと、サワー種を使ってパンを焼いてきましたが、これが19世紀に画期的に変わります。
17世紀にオランダのアントニ・ファン・レーウェンフックが自作の顕微鏡を使って、人類が初めて目にする微生物を発見しました。それは発酵中のビールのなかの酵母菌でした。
彼の発見がきっかけになって酵母菌の研究が始まり、19世紀になるとフランスのルイ・パスツールが発酵のメカニズム――酵母菌が糖をアルコールと炭酸ガスに分解する——を解明しました。
パン生地が膨らむのは、酵母菌によるアルコール発酵で生まれるガスであることがついにわかったのです。
イーストが普及しサワードゥ・ブレッドは消えた
この頃から、酵母菌を純粋培養した製パン用イーストが作られるようになります。酵母工業はヨーロッパから始まり、20世紀にはアメリカで発展し、第一次大戦後にはイーストが一般家庭に普及しました。
製パン用イーストとは数ある野生の酵母菌のなかのひとつ、サッカロマイセス・セレヴィシェという菌を純粋培養して進化させたもの。
これを糖蜜で育てた後、洗って乾かして粉末にしたものが、市販のドライイーストです。
イーストは純粋培養した単一酵母。
1グラムの生イーストには100~200億もの単細胞酵母が凝縮されているので、発酵の能力は抜群かつ安定しています。どこでも同じように働き、同じ結果を出すので、パンを大量に生産するためにはもってこいでした。
だから、あっという間に普及しました。
サワー種でパンを焼くためには特別な世話や給餌が必要です。手間と時間がかかり、そのうえ焼き上がりの時間を特定することができません(テクノロジーの発達により、現代ではかなり解消されていますが)。
だから、あっという間にサワードゥ・ブレッドは世の中から消えていきました。
バゲットはイーストが登場したからこそ生まれたパンだった
志賀勝栄さんの『パンの世界』を読んで、そうだったのか……と思ったのは「イーストの普及によって、焼きたてのパンを食べる文化が生まれた」ことです。
イースト以前の世界では、大型のパンを1週間をかけて食べるのが普通でした。フランス語でパン屋を意味するブーランジェーリーという言葉がブールという丸パンから来ているように、パンは丸いものだった。
焼きたてこそパンの醍醐味! と思っていたのですが、それは比較的新しいことなのですね。
しかし、成形後の最終発酵および焼成にかかる時間が少なくてすむ細長いバゲットなら、一日に何回転も焼けるし、その焼き上がり時間もコントロールすることができます。
蒸気オーブンが発明されたこともあいまって、バゲットはあっという間に普及し、フランスのパンの消費量の4分の3を占めるまでになりました。
なんとなく、バゲットって伝統的なパンなのだと思っていましたが、その歴史は100年と少しというのが意外だったのです。
イーストの登場とテクノロジーの進歩でパン職人の労働が激変
イーストの登場は、パンの作り手にとってはたいへんなメリットだったはずです。
パン職人といえば夜中に働く重労働の代名詞でしたが、フランスでは1920年代に22時から朝4時までの労働を禁止する法律が成立しました。朝4時から仕事を開始してパンを提供するには、イーストなしでは不可能です。
もちろん、さまざまな工程で機械化がどんどん進んだこともあります。
手ごねからミキサーへ、ガスオーブン、電気オーブン、冷蔵庫の登場……。
サワー種と違って、イーストはそのままパン生地に加えればいい。
材料をミキサーに入れて一度のミキシングだけで生地をつくる「ストレート法」が登場すると、誰もがこの手法を選ぶようになったのも自然な流れです。時間と手間に圧倒的な差があるのだから。
フランスでは労働環境の改善の進行にともなって労働時間に縛りが生じたこともあり、イーストはどんどん大量に使われるようになります。発酵を助けるためのさまざまな添加物や改良剤も登場しました。
暗黒時代のはじまり?
職人の仕事が楽になったのは良きことではあるのですが、1970年代から1980年代にかけて、パンの品質はどんどん低下しました。
というのも、パンの複雑な風味はさまざまな酵母の集合体による発酵がもたらすものなので、単一酵母のイーストではどうにもならないのです。
焼きたては美味しいけれど、その美味しさは翌日には消えます。風味が失われたため、パンの消費量は激減していきました。
70~80年代はパンの暗黒時代、と志賀さんは書いているほどです。
サワードゥ・ブレッドは、時代の流れに取り残されたのでしょうか。【つづく】
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